橋場さんを一言で言うなら、まさに「揺らがない人」。党の議席をなくすわけにはいかないと、10期目に挑戦したのが85歳の時。次回選挙で篠原暁さんが立候補し、当選して議席を引き継ぐまで力を尽くしてきました。山登りが好きだった橋場さんの、その気力と健康維持にも驚いたものでした。ちなみに、祭壇も山をイメージして飾られたようです。戦争が始まった時は羽幌鉱山、戦後は天塩炭鉱にて働いた橋場さん。党に入ったのは意外と遅く28歳。炭鉱住宅近くの河原で入党式をしたといいます。当時の党は分裂から統一へと向かっていく時期で、橋場さんは「レポーター」(連絡員?)としての活動をしたそうです。浅野炭鉱では、うたごえの活動や労組の書記、さらに保安係の資格が取れて坑内の監督もしていたといいますから、橋場さんへの信頼の厚さが伝わってきました。
綱領のもとに当時の党は統一と団結を取り戻し、橋場さんは写真のような選挙や演説会ポスターを次々と刷っていきます。もう60年が経つ木版を状態良く残しておくほど、思いを込めて彫られたのでしょう。学んだ書道をいかした力強い文字が、ポスターには並んでいます。橋場さんの選挙ポスターは初めから変わらず、ひらがなで大きく「はしば」と毛筆で書かれたものでした。




