予算委員会の審議まっただなかのため現職のときは来れず、4~5年ぶりくらいでしょうか。
多喜二が眠る奥沢墓地は、この時期、深い雪に覆われます。
そのため現地実行委員会などで前日、墓までの道のりを除雪するのです。
写真で見える道のりは一部で、その先も上り下りが続きます。
除雪だけでも大仕事ですが、今年で墓前祭は31回目。
サラサラサラと雪が降り続けます。
「今日の朝は晴れていたのですが、やっぱり今年も雪になりました」と、司会をつとめた古沢さんが話していました。
そういえば私が参加した前回も雪でした。
多喜二の顔が「今年もよく来たね」と語っているかのように見えます。
多喜二が自分の原稿料を出して、この「小林家」の墓は建てられました。
それが母より先に、自分が墓に入るとは多喜二自身も思わなかったでしょう。
母のセキさんが、自分より先に亡くした多喜二のことを思い、記していたのが今日のブログのタイトルです。
あーまたこの二月の月がきた
ほんとうにこの二月とゆ月かいやな月
こいをいパいになきたい
墓前祭では、あらためてこの一節が紹介されました。
拷問を受けながら、スジを曲げなかった小林多喜二。
その息子が変わり果てた遺体として見たときに、セキさんは大きな衝撃を受けたことでしょう。
作家としても、党員の先輩としても、人間としても、私も多くのことを学んできました。
この二月は、西田信春(11日)、野呂栄太郎(19日)、そして小林多喜二(20日)と北海道にゆかりのある活動家が拷問によって命を奪われた月。
今日のように凍えるほど寒く、頭に雪が積もるような毎日のもと、北海道での党の大先輩はたたかっていたのです。
そう思うと、身が引き締まる思いです。
安倍政権のもとで「戦争か、平和か」が問われる現在、まさに多喜二はじめ先輩たちの生き方に学びたい。
参加された方だれもが、同じ思いを持たれたのではないでしょうか。
墓前祭のあとは、小樽商科大学に保管されている多喜二の資料見学もおこないました。
「大学図書館から借りた本に多喜二が感想を書き込み、その感想に他の学生が感想を書き込んだ記録もあります」(荻野先生)とのエピソードに、さらに多喜二が身近になります。
(余談ですが、日本に3冊しかないという、カール・マルクス自筆サインがある資本論もありました!)
当時の自由な学風のもとでの多喜二の青春時代を、追体験できたと思います。
3日間に及んだ「多喜二祭」の最後は、小樽商大・高橋純名誉教授の講演。
ロマン・ロランが多喜二の虐殺に対して「抗議文」を出したか否かの検証は、当時の歴史が生々しく伝わってくる展開!
帰り道、小樽商大から「地獄坂」を下りて駅まで向かいました。
降り積もった雪道を歩いて下りるのも一苦労で、当時もかなり大変だったでしょうね。
都通りを歩くと、写真のような小樽についての「切り絵カルタ」が並んでいます。
あったあった、多喜二のカルタ。
丘に立つ/多喜二の思い/今もなお
小高い奥沢墓地の風景を思い出しました。
あらためて自分の活動の原点を見つめ直すような1日となりました。
【今日の句】人間の やさしさ強さ 知る命日
このブログを読んで、小林多喜二について調べてみたところ、多喜二の伯父・小林慶義が、ハスカップのお菓子「よいとまけ」で有名な三星の創業者で、自身の事業の失敗で迷惑をかけていた多喜二の一家を小樽に呼び寄せ、多喜二の学費の援助などをしていた、ということを知りました。
返信削除三星のホームページにも「小林多喜二とのゆかりについて」というコラムが載っていて、多喜二がプロレタリア作家になっていく背景も書いていました。
よければ読んでみてください。
(https://yoitomake.jp/company/takiji/)
匿名さん、コメントいただいたのに返信が遅くなり申し訳ありません。
削除小林多喜二と三星さんとは、おっしゃるとおりの縁がありますよね(私もかつて、該当のページを見たことがあります)。
こういうエピソードを聞くと多喜二も身近に感じるし、三星さんの地域に密着しようという姿勢が感じられてうれしいですね。