昨日の快晴とはうって変わって、今日は道東地方らしい霧の朝。
「昨日は晴れて島も見えたのにね」と小池さんと話しながら、会場「ニ・ホ・ロ」へ。
昨日の意見交換会でも「尖閣や竹島問題と違うのは、私たちの存在」と元島民の方からお話がありましたが、今日の話を聞き、あらためてその意味が鮮明になりました。
ソ連兵が家に上がり、着の身着のまま逃げ出し、あるいは強制的に追い出され、モノ扱いで貨物船に乗せられ、食べ物も着る物もなく、貨物船でも収容所でも多くの方が亡くなり、函館へ送還されて道東地域まで戻ってきた、壮絶な歴史。
返還運動も、始めた当時は道内でも関心がなく、本州でも署名にほとんど応じてくれなかったと言います。
粘り強い働きかけと、元島民のみなさんが結束したからこそ、今のように政府を動かし一定の世論にもなる運動へと大きくなってきたわけです。
「これまで何人もの大臣や政治家が来た」
元島民の方から話をうかがうと、必ず耳にする言葉です。
動きが見えない領土交渉に、あきらめなども生まれる現状も率直に語られました。
領土交渉は今後も続くのだからと、後継者づくりへの熱意と要望も寄せられました。
働き盛りの世代だけに、活動や交流の時間も必要ですし、政治から財政支援なども必要です。
そして痛感したのは、影響力ある人たちが「北方領土」を常に語ってほしいという要望に応えなければということ。
私もマイクを持って各地で話す機会はありますし、党道委員会の政策担当として世論喚起も具体化できる役割を持ちます。
もちろん国会で国会議員の奮闘が必要ですし、そのためにも参院選で党の力を大きくしないと。
昼食を「道の駅」で取りましたが、向こうにはタンチョウや白鳥の姿。
自然豊かな道東地方で希望の光が見えるようにと思い、根室市を後にしました。
【今日の句】 晴れぬなら 晴らしてみよう その霧を
お久しぶりです。まゆゆこと、橋本と申します。
返信削除いつも毎晩遅くの更新で、本当にお疲れ様です。
北方領土の問題ですが、ロシア側はどのような立ち位置で考えているのでしょうか。
以前、小学校の副読本で「この問題は解決済みである」という意味の内容が記載されていた記憶があります。
1951年のサンフランシスコの協定に基づいてのことなのでしょうが、メドべージェフ大統領の訪問という事態を聞くと、その思いを強くします。
其の辺の問題について、解説して下さると有難いです。
いつ、領土が返還されるのか、気にかかる処です。
季節の変わり目、くれぐれも、お身体ご自愛ください。
まゆゆさん、いつもコメントありがとうございます!
返信削除確かにサンフランシスコ条約で、日本政府は千島列島を放棄しました。
しかし、その後に「国後・択捉は千島に入らない」と、もともと北海道の一部である歯舞群島・色丹島と合わせた「4島返還」を言い出しました。
この根拠には旧ソ連も納得せず、現在に至っています。
さかのぼれば、日本とロシアが平和的に領土を画定したのは1875年の「樺太・千島交換条約」です(今日アップした動画ニュースに、少し出てきます!)。
それを「ヤルタ協定」という、ソ連・アメリカ・イギリスで「ソ連に千島列島を引き渡す」ことが盛り込まれ、勝手にソ連は終戦後も侵攻し、千島列島どころか歯舞群島・色丹島まで奪った--というのが歴史です。
勝手に当事者抜きで領土を決めた「ヤルタ協定」の不当はもちろんですが、日本が国後・択捉は千島に含まない、というのも根拠としては薄いのです。
本来は、だから千島列島すべてが日本領。
まずは歯舞群島・色丹島は千島列島でもないのですから、きちんと返還する。
それと並行して、千島列島についての話し合いと具体策を検討する。
ちなみに元島民などの「千島・歯舞諸島居住者連盟」では、「4島の帰属が明確になれば、返還方法は政府に委ねる」という方針です。
現在ですが、確かにメドベージェフ大統領が島を訪れ、開発予算を増額するかのように発言しました。
しかし、ロシア本土から見て、辺境の地に開発予算を投入するのは効率的でなく、政治的に力を見せたいだけとの推測もあります。
過去の交渉記録を読むと、旧ソ連(当時)側は歯舞群島・色丹島の返還意思も示しています。
その先は、残念ながら情報は見えてきません。
安倍首がロシア訪問をするのではとの話も出ていますが、根室市ではさほど期待が高まってもいないと、私は感じました。
冷静に、事態を見ることが必要だと思います。