子どもの学習発表会に目を細めた後は、原爆訴訟の先頭に立ってきた故・安井晃一さんを偲ぶ会に参加。遺志を受け継いでがんばることを約束しました。
安井さんが亡くなられたのが今年の8月5日。安井さんが73年前に広島で被爆した、その日の前日でした。あらためて今日うかがった94年の人生は、重たくも力強く、そして大きく優しいものだったと学びました。核兵器廃絶への執念も、偲ぶスピーチのなかからも伝わりました。
安井さんが被ばくしたのは21歳のとき、爆心地から1.87km地点でした。その後は北海道幕別町での教員生活を送るのですが、被爆者手帳を取得するのは退職後の1980年。それから被爆者運動に奮闘され、1999年に訴訟し、他の被爆者とともに合計9人の原告団として2003年には北海道原爆訴訟の先頭に立たれてきました。2010年に全員勝訴となりました。
安井さんの同僚だったという方が、子どもたちの合唱劇をどうするか話し合っていたときに安井さんが被ばくした話を聞いた、と述べられていました。安井さんにとって被ばくを他者へ伝えたのは、多分この時が初めてではないかということ。それだけ語るのには勇気がいることだったと思うのです。合唱劇は最後に、子どもたちが「原爆を許すまじ」を歌詞をうたわずハミングで合唱するということになったそうです。
その安井さんが訴訟に至って、弁護団との会議は「いつ結論が出るのかな」と弁護士さんが言うほど、過去の経験や膨大な資料にもとづく話がされたそうです。朝には新聞3紙を食い入るように読んでいたといいます。福島原発事故にも心を痛め「原爆と原発事故は車の両輪」と、その廃絶にも力を尽くしてきました。同じことをくり返すことは許さない、と。
たくさんのスピーチを、背筋が伸びる思いで聞きました。人の人生をふみにじることは許さない。罪もない市民の命を、一瞬にして奪う非人道的な兵器はなくすべきだ。遺影から、そう語りかけられているような気がしました。合唱団の「原爆を許すまじ」が、いつも以上に重く胸に響きました。
安井さんはじめ多くの被爆者が命がけの訴えをして、世界は核兵器を禁止する条約をつくるに至りました。しかし唯一の戦争被爆国でありながら、批准する姿勢を見せないのが日本政府。安井さんが生前、「日本はもっと世界にアピールしないとダメだ」と言っていたことが今なお続いているなんて、本当に情けないし腹立たしい。あらたな決意も湧いた偲ぶ会でした。
夜には、泊原発の廃炉をめざす会・泊原発を再稼働させない北海道連絡会の共催でおこなった講演会に参加しました。話をされたのは弁護士の井戸謙一さん。2006年に金沢地裁で、志賀原発2号機の運転差止め判決を出した元裁判官でもあります。原発をめぐる司法の経過と情勢をリアルに話され、あらためて市民が声を大きくすることの大切さが共有されたと思います。
国連人権理事会から「帰還基準は1ミリシーベルトのすべき」と声明があっても、正面から受け止めない日本政府。避難指示解除を急ぎ、東電の賠償打ち切りも進めている現実を前に、裁判所でも政権よりの判決が出ていることに井戸さんは懸念を述べられました。参加者も同じような思いでいたと思います。司法の独立はどこに行ったのか、と。
井戸さんは「市民の声で裁判官魂に訴えてください」と強調されました。嘆いていても始まらない、気づいたところから行動する。政治の舞台にいる私も、市民と野党の共闘で
今の政権を何としても変える。そう考えると、やりがいもあるというものです。明日も元気にがんばろう!
【今日の句】折鶴の 願いを総理 知ってるか
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