慌しかったのと、雪のため移動が大変だったのとでしたが、少し落ち着いてパソコンに向かえるようになりました。まずは高橋千鶴子衆議との、福島県浪江町を調査したことを--。
(※どういうわけが写真がアップできません! 復旧したら載せます)
今回の調査の目的ですが、総選挙前に高橋議員が予定していたものでして、原発被害の状況を定期的にとらえていくものの一環です。
私も震災復興特別委員会に配置となったので、ちょうど時間をつくれて参加した、というのが経過。
馬場績(いさお)浪江町議に案内してもらったのですが、さっそく行く前から「仮置き場」が目に入ってきます。
実は仮置き場にはモニタリングポストがないので、それも政府へ要求してほしいと、さっそく馬場町議からの要望も。
浪江町に入るときには身分証明書が必要です。
まず訪れた先は馬場町議のお宅。
農業も営んでいるのですが、向かいの田んぼは草が生えてすでに見る影もありません。
自宅に入れてもらう時には「もう帰れないからいいんだ」と、土足で上がりました。
台所はくもの巣が張り、つい最近のネズミの糞も散らばって‥‥線量も高く、とても住める状況ではありません。
これが馬場町議だけでなく、ほとんどの家がこうなのかと、暗澹たる気持ちになりました。
当時の新聞が残っていて、日付は2011年3月10日。
あの時から時間が止まったままです。
浪江駅前から商店街も回りましたが、地震の被害を受けて倒壊寸前の商店や、折れたまま放置されている電灯、光らず錆びてきた横断歩道。
2年前の11月に、同じ商店街を通ったのですが、空間線量が2年前より少し低いくらいで、あの時と何も変わっていない。
帰還に向けた1室3課の職員さんが浪江町役場で仕事をされていて、実態や要望を伺う時間もつくっていただきました。
「各事業が年度で区切られるため、繰り越して進めるということができない」
「作業員の確保が大変な状況。ようやくスタートに立てたというところです」
「水道などを復旧して、その後の維持管理をどうするかは大きな課題です」
などなど、具体的な要望も含めて現状を伺いました。
浪江町も海岸沿いは線量が低く、瓦礫処理や焼却施設の建設も(国主導ですが)進められています。
同時に、間もなく4年を迎えるなかで、戻らない選択をされている方が増えている現実もあります。
重い課題に直面している町職員の苦労を考えると胸が痛みます。
その後は請戸地域を回り、2年前は入らなかった小学校の中にも足を伸ばしました。
体育館の抜けた床には愕然。
2階まで津波が押し寄せた跡が今でも残っており、もちろん1階はガラスが割れ、散乱していたのだろう状況もわかりました。
2階の黒板は、当時は避難者の連絡板となっていたそうですが、今はメッセージボードとなっています。
全国からの激励、たぶん地元の方だろうと思われる方の書き込み、「がんばろう」「負けないぞ」などの言葉が並んでいます。
窓からは海がすぐ見えるほどのこの学校は、奇跡的に児童全員の命が助かりました。
低学年は帰宅していたのですが、高学年は日ごろの訓練の成果が生きて、裏の山まで逃げたのだそうです。
少し気持ちが救われたまま請戸漁港に行くと、引き上げられて間もないという漁船が2隻。
貝がビッシリ着いています。
環境省直轄の事業として瓦礫処理と焼却施設建設は、ゼネコンも入り着々と進んでいましたが、肝心の「生活の再建」も同じくらい着々と進んでいるんだろうか、と思いました。
目に見えた・耳に聞こえた現象面ばかりを書き連ねたばかりですが、翌日に仮設住宅での聞き取り(私は北海道の用事があり参加できなかったのです)と合わせて、高橋議員と今後どうするかを話し合いたいと思います。
一道民でなく、もう私は国会議員なのだから物見遊山で行ったつもりはありませんが、まずは現実を多くの方には忘れないでほしい、とつくづく感じます。
原発被害は、現在進行形。
これは2年前にも書いたはずですが、今も変わっていないのです。
避難した方も、戻りたいという方も誰もが被害者なんですから、ふさわしく補償が受けられるように。
復興に向かうにしても、そのあり方や進め具合も、住民主体でなければ進まないと思います。
その作業を町まかせにせず、国として人も技術も出して支えなければ、行政も大変なんですから。
翌日、飛行機で戻るはずが新千歳空港では大雪のため欠航となり、新幹線を乗り継ぎながら道内に来ても、やっぱり雪で特急も札幌へとノロノロ運転。
疲れもなんのそのと、今日は各地の新春の集いなどを回りました。
どこも「今度は地方選挙勝利!」と燃えています。
私も国会活動とともに、地方選で日本共産党が伸びるような活動にも力を尽くしたいですね。
【今日の句】 震災の記念日 首相は国外へ
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