秀でた経済学者であり、日本共産党の大先輩である野呂栄太郎の没後89周年墓前祭・碑前祭がおこなわれました。今日は野呂が生まれた日で、生誕123年の記念日でもあります。
例年は野呂が亡くなった2月19日に実施してきましたが、冬の悪天候の心配や除雪の労苦などもあり、今年から4月実施に変更。暖かく穏やかななか多くの方が参加され、野呂の業績を称えつつ死を悼みました。
長沼村(当時)で開拓農民の両親のもとに生まれた野呂は、義足のハンデを負いながら剣道や射撃に取り組み、また慶応大学に進むなど才能を発揮させてきました。学連の代表委員に選出された後、治安維持法のもとで卒業論文を没収されるなど厳しい弾圧を受けました。
産労所員として日本資本主義の歴史的発展について一連の論文を発表し、日本資本主義発達史の刊行、日本資本主義発達史講座の刊行準備へと力を注ぎます。一方で、1930年には日本共産党に入党していたことは確認されており、党活動にも尽力しました。
1933年11月にスパイの手引きによって逮捕され、激しい拷問のもとでも調書を拒み続けましたが翌年2月、北品川病院で33歳10ヵ月の生涯を閉じました。当時の日本軍国主義の残虐さに、あらためて糾弾の思いをぶつけたい。
碑前祭の閉会あいさつで日本共産党の薮田亨・長沼町議が、野呂が伯父にあたる故横路孝弘・元衆議院議長から伝え聞いたエピソードを紹介していました。野呂の妹であり、横路さんの母である美喜さんのことです。
横路さんが小さかったころのある夜、美喜さんが寝言とは思えないほどの声をあげたそうです。「兄が、悪いことを何かしたのか」。一夜だけでなく、何度か聞いたとのこと。年月を重ねても野呂の死を受け入れられない、無念の思いがひしひしと伝わってきます。
大先輩の不屈のたたかいがあったからこそ、今の日本共産党があります。野呂はまた、科学的確信とともにヒューマニズムも兼ね備えた大先輩でもありました。33歳の若さで、これだけの人生を送っただなんて。
いつも墓碑を前にして野呂の生き方に学び、決意を新たにしてきたつもりですが、まだまだ足元に及ばないと自省の1日でもありました。岸田政権の大軍拡・大増税路線に歯止めをかけて、平和と自由・民主主義の日本へ、しっかり野呂へ報告できるようにがんばらねば。
【今日の句】魂を継いで 歴史もまた前へ
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